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福島民報 「日常のカルテ」 2020年3月2日

[2020.03.02]

本日の福島民報の「日常のカルテ」に寄稿させていただきました。前立腺癌についての話だったのですが、私が昨年まで勤務していた大学病院でのエピソードを元に書かせていただきました。

前立腺癌は典型的な高齢者の癌なのですが、現在では様々な治療法が開発されてきています。我々泌尿器科医はそれらの治療法を駆使し、いかに患者さんの予後をよくするかを常に考えています。そして「ある治療法の次に、この治療法を導入すると予後が伸びる」といったようなエビデンスが次々と出てきています。しかし、治療法を選択するときは、それぞれの患者さんの年齢や状態に合わせて選択していくようにしなければならないと常に考えています。治療法の利点欠点については丁寧に説明しますが、最終的に患者さんが選ぶのは治療選択の結果としての「生活の質」だからです。

このエピソードに出てくる「先生(患者さん)」にはもう会うことは出来ませんが、そんな事を考えながら原稿を書いていました。書いているうちに少し長くなってしまったのですが、福島民報の原稿は1000字程度(厳守)とのことでしたので、なんとか削って字数を合わせました。

今回はせっかく書いたので全文を掲載しておこうと思います。

 

 

 

 

前立腺癌  ~最適な治療法の選択~

 

「や~、先生。僕は元気ですよ。はっはっは。」

元気に外来のドアを開けて入ってくるその患者さんは、私の恩師でした。私の学生時代からダンディだったその先生は、以前と変わらずぱりっとした背広をきて、ロマンスグレーの髪をオールバックにし、黒縁のしゃれたメガネをかけ柔和な笑顔で話す、昔と変わらぬ、明るくお元気な先生でした。私が学生時代に受けた先生の講義は常に理論的で、明解で、生命現象の面白さを説くもので、毎時間楽しみに聞いていました。

 先生は、前立腺癌でした。私の外来に紹介となったとき、すでに骨転移をきたしておりました。骨は前立腺癌の転移が最も多い部位であり、骨転移の存在は、前立腺癌がかなり進行しており、手術や根治的放射線療法の適応とならず、薬物療法による治療しか残されていないことを意味していました。

 本邦における前立腺癌の罹患数は増加を続けています。国立がん研究センターによる2019年のがん統計予測によれば、罹患数は78,500人と男性における癌罹患数で大腸癌、胃癌、肺癌についで4位、男女合わせた罹患数予測でも第5位となっており、近年前立腺癌の罹患数は予想を上回る勢いで増えています。過去200年間、伸び続けた人の平均寿命は、現在人生100年時代に突入していると言われています。前立腺癌は典型的な高齢者の癌であり,本邦の急速な高齢化は前立腺癌罹患数の増加の一因となっていると考えられています。

 前立腺癌の早期発見には、検診や人間ドックでの採血での前立腺特異抗原PSA値の測定が重要です。そのPSA値から前立腺癌が疑われる場合には、確定診断のために前立腺生検が必要となります。もしも前立腺癌であると診断されたら、病期診断を行い、前立腺内にとどまる癌であった場合には手術や放射線療法といった根治療法を選択することが可能です。特に年齢が50~60代で限局性前立腺癌と診断された場合の平均余命と根治療法後の再発率を考慮し、まずは手術療法が考慮されます。しかし、手術療法後には尿失禁が残る可能性も有り、患者さん全員が手術療法を選択するわけではありません。ましてや70代後半~80代の患者さんの場合や、体力に自信が無い方などは放射線療法でも、手術療法と遜色なく制癌が達成可能です。

 一方、前立腺癌診断時に、骨などに転移が認められた場合、前立腺を摘除しても完全な治癒が期待できませんので、全身療法として、いわゆるホルモン療法が選択されることがほとんどです。前立腺癌は男性ホルモンで育つため、この男性ホルモンを遮断することで全身に散らばった前立腺癌を兵糧攻めにしようという治療法です。この治療法、非常に効果があるのですが、癌細胞のタイプによっては治療後数年で効果がなくなってしまう場合が多く有りました。

先生の前立腺癌は、そのタイプの癌でした。ホルモン療法が奏功して、PSA値が下がっていたのは少しの間だけで、PSA値は再び上昇し始めてきました。そこで次の手を打たなければなりません。一般的に選択肢として、最も効果が高いのは抗癌剤による治療になります。他に、新しいアンドロゲン受容体軸標的薬(ARAT)や、昔から使われているステロイド内服療法などが考えられました。年齢や以前よりやせてきた先生の体力を考慮して、治療法の選択肢の説明をし、まずは抗癌剤ではなく、ARATの内服治療の方針としました。しかし、この新薬も先生の体にはきつかったようで、筋肉痛など副作用が出現したために、段々と日常生活や外来通院がきつくなっている印象でした。それでも私の外来に来ますと、にこやかに「元気ですよ~」といつもおっしゃっていました。ただ、ご家族のお話ですと、家で寝ていることが多くなっている、とのことでした。やはり少しずつ日常生活動作ADLが落ちてきているようでした。そんなお話を聞き、先生にも今の治療法が少しきついのではないか、作用機序は異なるけれどもう少しマイルドな治療法が生活の質も改善することが期待され、良いのではないかとお話いたしました。すると先生は私に、「薬が効かないなんては言わないでくださいよ。それと、ほかに治療法が無いなんては言わないでくださいよ」とおっしゃいました。私の提言が、もう、今の治療法の効果が無くなってきていると思われてしまったのかと思い、再度、先生のお体の状態を考えての変更であると説明し、治療法の変更を受け入れていただきました。そして、そのおかげか、しばらくするとこれまでの筋肉痛は軽減し、また、PSA値もさしたる変化無く、先生も前治療の時よりも少しお元気になられているように見えました。無事先生が、普通に外来を受診されると、私も安心でした。

しかし、しばらくすると、先生のご家族から連絡が来ました。先生は日に日に食も細くなり弱ってきており、寝ていることが多くなってきたとのことでした。そして、そろそろ私の外来に通院するのは難しくなってきたと、訪問診療に移行する事を考えているとのことでした。

ご家族からの突然のご連絡に、非常に驚くと共に、私が変更した治療法で、本当に良かったのだろうか、副作用のコントロールを優先したためとは言え、治療法の変更でかえって病勢を悪化させてしまったのでは無いかと悩みました。訪問診療中心に移行してしまったら、もう、先生にお会いするのは難しいのかも知れないと思いました。

しかし、しばらくたったある日、

「やあ、先生、また来ましたよ!」

先生は、車いすに乗って、ご家族とともに私の外来を受診されました。

「先生、具合はいかがですか?」と聞くと

「変わり有りませんよ。少し足腰が弱りましたけどね。でも痛みも無く調子いいですよ。」

先生は、相変わらずの笑顔で答えてくれました。私はほっとすると共に、あまり無理をなさらないようにとお話しました。

すると帰り際、先生に付き添ってきたご家族が私にそっと耳打ちしてくれました。

「父は、先生の外来を楽しみにしているんです。いつもは寝てばかりですが、先生の外来の日はきちんと起きてくるんですよ。」とのことでした。

先生のために最終的に選択した治療法は、最新の薬を使ったものではありませんでした。しかし、外来での先生の笑顔をまた見ることが出来たとき、先生の病状や体力に合わせた治療が、日常生活動作の維持を可能な限り伸ばすことが出来たのではないかと考えることが出来ました。先生は、卒業した後も私の先生でした。12月のよく晴れた穏やかな日のことでした。

 

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